|
|
加島 祥造氏の『肚(はら)―老子と私』を読み終えました。
根石さん、あともう数回読んだら送りますね。
この作品を読んで「タオ」や「茶の本」に出てくる「無」というキーワードと、
根石さんの喩語である「空っぽの乾電池」が、久しぶりに僕の中でリンクしました。
(リンクしたというよりも、思い出しただけかも、、。 )
「茶の本」を読んだことのない人のために、ちょっとだけ紹介させてください。
引用開始 ・・ 「茶の本」の第三章より
This Laotse illustrates by his favourite metaphor of the Vacuum.
He claimed that only in vacuum lay the truly essential.
The reality of a room, for instance, was to be found in the vacant space enclosed by the roof and the walls,
not in the roof and walls themselves. The usefulness of a water pitcher dwelt in the emptiness where water
might be put, not in the form of the pitcher or the material of which it was made. Vacuum is all potent
because all containing. In vacuum alone motion becomes possible. One who could make of himself a vacuum
into which others might freely enter would become master of all situations. The whole can always dominate the part.
<< 中略 >>
A vacuum is there for you to enter and fill up the full measure of your aesthetic emotion.
・・・・・・・・・・・・・
英語だと何が書いてあるかさっぱりな人も多いですね。
がんばって訳してみます。「そりゃやりすぎだろ!」ってほどの僕のスーパー自由意訳でやらせてください。
英語から受けた僕の中のイメージを日本語で再現してみます。(岡倉天心さん、ごめんなさい。)
・・・・・・・・・・・・・
このことを、老子はお得意の喩語・・「空っぽ」って言葉を使って説明しています。
彼が言う事には、「価値」や「本質」っていうたぐいのものは、「空っぽ」そのものにあるんだそうです。
例えば「部屋」。 部屋っていうのは、壁や天井そのものに価値があるんじゃない、
壁や天井に囲われてできた「(空っぽの)空間」の方にこそ、価値があるんだってことです。
水瓶(みずがめ)だってそう。
水瓶の真価は、水瓶をかたどっている外側の材質や形に価値があるんじゃない。
水を入れることのできる、中の「(からっぽになっている)空洞」にこそ価値がある。
「空っぽ」っていうのは実はすごい。なぜなら「空っぽ」そのものが秘めた価値を持っているからさ。
「空っぽ」だからこそ、動くことが可能なんだね。(きちきちに中身が詰まっていたら(中で)身動きとれないだろ。)
誰でもかれでも自由に懐に飛び込んでくることを拒まない、大きな器(うつわ)を持っている人は、
いろんな場面で大成すると思う。
いつだって、大きな存在は、小さな存在を受け入れることができるのさ。
<< 中略 >>
「空っぽ」っていうやつは君のために存在しているんだよ。
その空っぽな空間を、君の(美に対する)感情で、
思う存分満たすことができるんだ。(そのために(空っぽは)存在しているんだ。)
「茶の本」の第三章より
日本語(私が英語から感じたイメージ)・・・by 吉 (原文のイメージを大きく壊しちゃっても、怒らないでね、、)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここで、この上の部分で岡倉天心さんが語っている内容の引用元を、
「老子 道徳径」の中に見つけましたので紹介しておきます。
よく見つけたね〜と、こちらは褒めてください。 (^^)
引用開始 ・・・ 「老子 道徳径」 の 第十一章
三十輻共一轂。當其無有車之用。挺埴以爲噐。當其無有噐之用。
鑿戸 以爲室。當其無有室之有。故有之以爲利。無之以爲用。11
上の原文はこちらを参考にしました。
http://murasakicube.web.fc2.com/WW/ww_350Laozi.html
第十一章 (無の用)
三十本の輻が、車輪の中心(轂)に集まる。
その無の空間に車輪の用がある。
粘土(埴)をこねて、容器をつくる。
その無の空間に容器の用がある。
戸口や窓の穴をあけて、家をつくる。
その無の空間に家の用がある。
ゆえに用(有用性)が利をなすことになる。
無の用である。
こちらの文章はこちら↓のサイトから、、
http://www.eonet.ne.jp/~kyosyuu/laotzu11.html
・・・・・・・・・・・・・
ふ〜〜〜とりあえず、今夜はここまでにしておきます。
「茶の本」にでてくる岡倉天心のこのあたりの言葉や、「老子 道徳径」第十一章 を、
僕はすごく楽しんでいます。
それから、老子を思い出してから「からっぽの乾電池」という根石さんの喩語が頭をよぎっています。
これは当事者性を欠いた「机上の英語」のことですが、(根石さん違っていたら訂正してください)
この「からっぽの乾電池」(机上の英語)にこそ価値があるのですね。
このあたりのことは、また今度書きます。
「肚(はら)」という漢字から、巡りまわって「茶の本」にたどり着きました・・・
というお話でした。 (いつも長くてごめんなさい、、。)
|
|